祖母の葬式に行ってきました

6月29日、母方の祖母が危篤だと連絡が来た。そのあとすぐ亡くなったとのことで、急遽30日までの予定だった仕事を休んで4日間宮城の仙台へ行っておりました。
祖父母宅には2018年の年末を最後に、祖母が肺がんを患い具合が良くないからということを理由に行っていなかった。4年近く会っていなかったので正直記憶が曖昧なところもあるけれど、祖母は孫の私を可愛がってくれていました。帰省すればご飯やお菓子を沢山振舞ってくれたし、母と一緒に出かけることもあった。葬式で涙は出なかったけど、寂しいと思う。というよりお骨を見ても未だに実感が湧かないのが正直なところです。

30日に到着して見た祖母の遺体はやせ細っていて、目はくぼんでいたし、肌が黄変していて、口は開いたままだった。動かなくなった祖母は良く出来た人形みたいに見えた。人は死ぬときこんな姿になるんだと思った。
祖父の話によると朝起きたら居間で倒れていて、救急車で運ばれ、最後大きく呼吸をヒューとして亡くなったらしい。
呼吸ができなくなって死ぬのは嫌だな、と思った。
その日の夕方から葬式屋が来て、お通夜、火葬、告別式などの打ち合わせを行うのに私も付き添ったのですがこれが長かった。正直話を聞いてるだけでこの日は疲れました。

1日は朝から納棺があった。葬式会場兼宿泊施設まで行って、遺体を洗い、死化粧を行う様子を見守った。死化粧をした祖母の顔は血色が戻ったように見えて、ますます人形みたいだと思った。この時には口元も閉じられていた。本人も周りもある程度心の準備が出来ていたし、綺麗な姿で死ねたのだから、良かったのかもしれませんね。
時間があったのでホテルに戻り、黒い靴に履き替えて、(納棺時は黒っぽい私服を着ていて、確認したところそのままお通夜に出てもいいんじゃないかと言われたので着替えずに行った。家族葬だしね)お通夜に出た。
これは短くて、十数分お経を聞いたり、焼香をしたりして終わった。
この際戒名というのも行われて、仏式で死者に僧侶がつける名前なのですが、生前の様子や元の名前を汲んだ綺麗な名前をもらっていた。

悲しみに暮れるかと思いきや、死後の手続きや祖父の今後についてなどやることが沢山あって、ボケ気味の祖父とポンコツの母を前に叔母がピリピリしていた。私もおおよその説明は聞いていましたが人が死んだ後というのは提出書類などが沢山あって大変なのだと学びました。

2日もまた朝早くから火葬がありました。祖母の顔を見れるのはこれが最後。棺にお花や寄せ書きの色紙や遺品を入れて、棺は閉じられました。(この際釘打ちすることもできるのですが、最近はあまりやらないものらしい)
この時遺影や松明やお米なんかをそれぞれ持って、叔母一家合わせて7名だったので、バスに棺を入れて移動し、火葬場に着いて出棺の儀式をし、1時間半程度でお骨上げをした。遺骨を箸でそれぞれが拾い上げるのですが、なかなかホラーだなと思ったりした。
骨壷に収める際も遺品を入れることができるのですが、その中に眼鏡があって、頭蓋骨のに眼鏡をかけるように入れてくれたりして(生前そこまで眼鏡が好きじゃなかったということもあり結局脇に収めましたが)ちょっと面白かった。
そのあとは告別式。これが最後の式です。
これも読経十数分程度が二回行われて、焼香したり、喪主挨拶などをやったりして、そこまで長くなく終わった。

葬式に出たのは曽祖母以来2回目でしたが、その頃は5歳とかだったし、ここまで1から葬式に出たのは初めてだった。葬式も疲れるものですね。

祖父の話によると祖母は晩年抗がん剤治療も訪問治療も断り自力で回復しようとしていたらしい。祖父の側にいたかったようです。また自分の具合の悪い姿も見せたがらなかったし、死んだこともあまり周りに伝えて欲しくなかったのだとか。

私はというと三日間家族すし詰めビジネスホテル泊まりで、久しぶりに親と外食をしたりまともに話をした。それは良い機会だったかもしれません。叔母一家とも久しぶりに会いましたし。

おばあちゃん、今までありがとう。
安らかにお眠りください。

そして私は晴れて無職になりました。いぇいいぇい。